リフレクション 写真展 / director 湊雅博

リフレクション2016に参加いたしました寺崎です。会期中は多くの方にお越しいただきありがとうございました。
会期中に更新することができず遅くなってしまいましたが展示を終えて思ったことなど、まとまらなかったので箇条書きですが書きます。
内容がほとんど個人的なことになってしまいました。すみません。
 

正直、作家同士が作品に表れるようなかたちで影響し合うのは難しいと思っていた。
しかし今回リフレクションに参加して、異なる写真の在りようや他のものの見方を知ることができた。
他の二人の作家が平地で、且つ水平垂直でものを見ている(写真を撮っている)ので、
結果として自分は身体性(というよりも肉体性?)と地勢の高低差の部分を強調させるような選びになったように思う。
「自分の写真の持っている幅」の意味が展示が終わるころになって少しわかった気がする。
スペースの関係で二段組みにしたがあまりよくなかった。やはり一列に並べたい。
 

(トークのとき、)自分自身でも自分の写真はスナップ写真でもある、という自覚はあったのでスナップ写真と言ってしまったが、スナップは手法のことであるし(風景写真は風景を撮った写真であって撮影対象のことを言っていると思うから)、もちろん風景写真であるとも思っているので、なんか違ったなと後から思った。
「風景写真は考察の結果なのであって明確さがある」とのことで、自分は他の二人に比べて対象と向き合っていないというようなことを言われたような気がする(これはちゃんとメモしていなかったのでどのように言われたのかは覚えていないが)。
でも、写真は撮って思考して撮って思考しての繰り返しであるし、他の二人のほうがコンセプトに沿い半ばすでにあるイメージを撮っているように思っていたので、これについては腑に落ちなかった。
自分自身に思考が足りないのは重々分かっているが、対象とは正面から向き合っていると思っている。
歩いては立ち止まって考える前にシャッターを切りまたすぐに歩くというのが自分の撮り方であるが、長居をしないのは拘りすぎると自意識が出てきてしまって風景がどんどん遠ざかってしまうからで、目の前のもの、風景から発せられるものに反応しているつもりだし、一瞬でもそこに対話もあると思っている。
風景はもともと存在している客観物ではなくて、そのときそこにいる自分(もちろんそこで生きている人々も含めて)人間との相互関係の中で現れるものではないのか。
 

自分にとっては出てきた写真よりも、撮ること自体(行為)が一番大切なのではないかと改めて認識した。少なくとも今回関わった二人と比べると、その部分が大きいと感じた。
撮った写真に意味が、価値があるのかないのか、それはわからない。わからないけど写真を撮っている。一種使命感めいたものかもしれない。
だったら撮っているだけでいいじゃないかなぜ発表するのかと言われるが、自分なりに新しい時代の風景とはなんなのかを考えてやっているつもりであるし、撮影と同じで作品も相互的な関係の中で成立していくものだと思っているから、とにかく写真を自分の手から離して外に出してみたいので発表をしている。
しかし、そうする前に、
具体的なことを撮っているようで具体的ではないのだから、どういうことをしたいのか見えてくる仕組み(?)をつくること。
どういうことを人に反応させるか、写真を見せた結果として何を起こさせる?見せるか?を自分の中できちんと考えるべき(それは必ずしも他人とイコールになるものではないけど)。=写真における画面のおもしろさがどこへ行こうとしているのか。
をきちんと考える必要がある。
とにかくきちんと自分の写真を客観的に見ることができるようになること。
 

映像(動画)の現代において、静止画を見ることの意味や、おもしろさは何か。
 

目下具体的に考えることやること
・プリントの仕方や展示方法を見直す。
(自分では撮影時の風景と向き合う感覚に近いのは大きいサイズだと思っていたが、別に自分は自分の感覚を共有したいわけではないのだし、
大きいと逆に細部が見えなくなるとの意見もあり、写真で何がみえるのかを考え適切なサイズや額などを検討すること)
・モノの質が違うところで写真を撮ってみる。
(いま風景写真は地方ばかりで都市を撮っている人がそういないという話もあったので、
一度都市で撮ってみようと思うが、都市はその場に長く留まること自体が生理的に難しいのでできるかどうかはわからない…)
・カメラを替えてみる。

 

2016-600

 

寺崎珠真

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