「リフレクション」展を振り返って 調文明(写真批評/研究)

   私は今回の「リフレクション」展にふたつの立場から立ち会うことになりました。ひとつは展示期間中に行われたギャラリートークのナビゲーターとして、もうひとつは展示の打ち合わせ段階から第三者のまなざしとして、展示に関わってきました。ここでは、後者の立場から見えてきたものを綴っていきたいと思います。

   今回の展示にかかわるきっかけとなったのは、出展者のひとりでもある大谷さんにトークのナビゲーターとして推挙されたことに始まります。当初はナビゲーターでの参加だけの予定でしたが、作家同士の打ち合わせの場にも呼んでいただけることになりました。打ち合わせに同席しようと決めた理由のひとつに、グループ展の裏側を見てみたいという個人的な欲求もあったのは正直なところです。

   さて、一言でグループ展といっても、そこには様々なかたちがあるでしょう。何らかのコミュニティ(大学の写真サークルやワークショップの仲間、自主ギャラリーのメンバーなど)に属する者同士が企画する展示もあれば、何かしらの共通点をお互いに認め合った者同士の企画する展示もあります。もちろん、キュレーターや学芸員が企画する展示もあるでしょう。しかし、いずれの場合でも、写真家の創作の部分にかんしては「聖域」と見なされ、厳重に保護されているように思われます。仮に「相談」というかたちで介入することはあっても、基本的にはノータッチが暗黙のルールになっています。それはある意味、当然のことと言えます。「聖域侵犯」を認めてしまえば、作家性を傷つけてしまう恐れがあるわけですから。

   今回の「リフレクション」展は、ディレクターの湊さんが出展者ではなく企画者のみの立場で関わられています。そして、過去5回にわたり風景写真をテーマに企画された展覧会シリーズの6回目にあたるものでもあります。その意味では、上記に示したキュレーターや学芸員が企画する展示に分類されるかもしれません。しかし、本展は打ち合わせの段階で写真家の「聖域」に出展者、湊さん、そして私を含めた参加者全員が切り込んでいきました。毎月1、2回閉廊時間の19時以降に、全員がプレイスMに集まって打ち合わせをしました。その回数は10回以上に及んだと記憶しています。

   2部屋2部構成の本展は、合計4つのセクションに分かれており、出展者は部屋ごとに構想中のアイデアや写真を示し、お互いの写真を意識しながら持論をぶつけ合いました。それは、相談という生易しいものではありません。作品制作の構想それ自体に疑義を差し挟むこともありました。その意味で、展覧会タイトルにもある「リフレクションreflection」とは、ただ個別に作品が並ぶのではなく、各部屋のなかで、あるいは部屋同士で「反映・反響」し合うということ、そしてその反映・反響をとおして出展者が改めて自作を「反省」し直すことを意味しています。

   そのなかで、出展者でもなく企画者でもない第三者の立場にいる私は、ある意味で作者と編集者のあいだに位置する「校正者」のような役割を担っていたと言えるかもしれません。作者の発言と作品の表現は必ずしも一致するとは限りません。作者の「想い」が作品の「声」を聞き取り辛くさせていることもあるでしょう。校正者の立場であるが故に、想いと声の矛盾点を明らかにすることもできれば、作者の思ってもみないところに作品の表現(の可能性)を感じ取ることもできるのだと思います。

   こうした「特異な」あり方をとおして、「リフレクション」展は現在の風景写真を提示することとなりました。その提示にかんしては、本展に寄せた日高さんの文章がとても的確に示してくれています。展示全体の概括はその寄稿文に譲るとして、ここでは私がこのグループ展をみて個人的に考えたことを記すことにしましょう。

   本展をとおして大きく2つのことが頭に浮かびました。ひとつは「歩を進めること」、もうひとつは「位置を占めること」です。前者の「歩を進めること」に当てはまるのが、箱山さん、山方さん、福山さん、坂本さんの写真です。箱山さんの写真は、団地住人の「好み」により自然界では決して隣り合わない植生となった花壇を被写体としていますが、それを客観的に撮影するというよりは、むしろ撮影者がそのなかへと積極的に分け入り、多種混合された草木と踵を接しているかのようです。山方さんの写真は、急勾配の山岳地に特有と思われる最小面積を実現した鋭角的な屋根の家などフォルマリスティックな造形美かつ民俗学的な関心を引き起こすだけでなく、その急勾配を昇降する身体的な感覚をも(テクストに頼らず)画面から滲みださせているように思います。

   また、福山さんの写真をみると、塀やガラス窓、植え込みといった遮蔽物を前にして、更にもう一歩踏み込んで覗くように撮影されています。この一歩がスナップショットに触覚的な感覚を与えていると言えます。坂本さんの写真には、東北の「奇抜」な家屋のタイポロジーになりそうで、しかし決してそれにとどまらない細部があります。それは画面の端に写り込む舗装された道路で、そこに撮影者の「足取り」を感じます。

   一方、「位置を占めること」に該当するのが、大谷さん、相馬さん、池田さん、船木さん、小平さん、榎本さんの写真です。大谷さんの写真は、現実世界を奥行きの曖昧な二次元的視覚平面に還元させることで、鑑賞者に特異な視覚的環境へと身を置くよう促しています。相馬さんの写真は、不自由な撮影条件にその身をさだめ、結果として現れ出てくるイメージ群を検証するという実験的な試みを行っています。池田さんの写真をみると、現実に対して感じる生理的反応を一幅のタブロー的構図のなかに凝縮させることで、伝統的な構成美の背後に内臓感覚のようなものを宿しているように感じられます。

   また、船木さんの写真は、風景と風景を2枚1組で対置させることで、両者の関係性をどう捉えるかで撮影者による風景の位置付け(実際には、鑑賞者が「撮影者による風景の位置付け」と想像的に解釈しているのではありますが)と鑑賞者による風景の位置付けとが絶えず接近と離反を繰り返しています。小平さんの写真は、外界と自己の距離を目盛りで測りながら撮影しているかのようであり、その「計測」によって算出=産出された写真を壁面に縦横に配置しています。榎本さんの写真は、区画されて久しい土地を、その直線的区分けが目立つようにカメラによって再フレーミングすることで、土地の「所有」について一考を促しています。

   「歩を進めること」と「位置を占めること」、これらは「移動」と「不動」と言い換えることができるかもしれません。「直立するヒト」を意味するホモ・エレクトゥス(原人類)は、直立二足歩行を可能としたヒト属最初の進化段階にあたり、木から降りて世界に歩を進めました。このときから、世界は劇的に広がりをみせます。そして、「知恵あるヒト」を意味するホモ・サピエンス(現生人類)を経て、更なる進化を遂げた人類はやがて、拡張された世界に線を引き、位置を占めることになります。それは現在、「領土」や「不動産」と名付けられています。そして、人類は再び区分された世界に歩を進め、そこに引かれた線を越えていきます。「歩を進めること」と「位置を占めること」(の繰り返し)は、人間と世界(・自然・風景)の関係の根源にあるものと言えるかもしれません。

   最後に、グループ展の「これから」について少し書いてみたいと思います。今回の展示にかんして、個人的に気になった点がないわけではありませんでした。そのなかでも特に気になった点は、人物の写った写真が周到かつ執拗に排除されていたことです。展示された写真から風景に対峙する写真家の気配は感じられても、世界のうちにある人間の存在はきれいさっぱりと消去されていました。このことを考える前に、少し過去を振り返ってみることにしましょう。

   戦後日本の風景写真を検討する際に、日本に紹介されたアメリカのふたつの展覧会を無視することはできません。ひとつは、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かってContemporary Photographers: Toward a Social Landscape」(ジョージ・イーストマン・ハウス、1966年)であり、もうひとつは「ニュー・トポグラフィックス――人が変容させた風景の写真New Topographics: Photographs of a Man-Altered Landscape」(ジョージ・イーストマン・ハウス、1975年)です。もちろん、連続射殺事件を起こした永山則夫元死刑囚を題材にした映画製作をきっかけに、1970年代初頭に松田政男氏の提唱した風景論が当時の写真表現に与えた影響も無視できませんが、その考察はまたの機会にいたしましょう。

   前者はコンポラ写真(1968年頃)の語源ともなっていますが、残念ながら副題の「社会的風景」のほうは同時代に主要なテーマとして取り上げられることはなかったようです。一方、後者は1980年代の日本の風景写真に大きな影響を与え、今もその力は衰えていないように思います。「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」が風景の概念を「人間と人間との、人間と自然との結び付き」とかかわるものとして再評価し、人も写り込んだ「スナップショット」に注目した一方で、「ニュー・トポグラフィックス」は19世紀にティモシー・オサリバンらが撮影したアメリカ西部の風景写真の流れを受けて、微細な細部まで写し撮る大判カメラによる無人の風景写真を奨励しました。無人の風景は、今も風景写真の強力な方法論になっています。

   さて、本題に戻りましょう。前回2011年のグループ展では、人物の写った写真も展示されていたようですが、今回の「リフレクション」展で人物を含めた風景写真の可能性があらかじめ外されていたことは、残念に思います。個々の作家の作品に強く惹かれれば惹かれるほどに、無人の風景という既存の枠組みが煩わしく感じられました。たとえば、「コンテンポラリー・フォトグラファーズ――社会的風景に向かって」が風景の概念を問い直すうえで注目したスナップショットは、今もその問い直す力を持っているように思います。

   「リフレクション」展をある種の「反面教師」として捉えること。この展覧会を契機に、風景写真の新たな枠組みを提示するグループ展がそここに登場することを期待するとともに、来るべき第7回目の展覧会が本展をさらに乗り越えようという強い意思を持った写真家たちによって、展開される場になることを強く願っております。

 

【DIVISION-1】3F(大谷佳、相馬泰、箱山直子) 展示風景

Div1-3F-1

Div1-3F-2

Div1-3F-3

【DIVISION-1】3F 大谷佳 展示風景

Div1-OTANI-1

Div1-OTANI-2

Div1-OTANI-3

【DIVISION-1】3F 相馬泰 展示風景

Div1-SOMA-1

Div1-SOMA-2

Div1-SOMA-3

【DIVISION-1】3F 箱山直子

Div1-HAKOYAMA-1

Div1-HAKOYAMA-2

Div1-HAKOYAMA-3

【DIVISION-1】2F(池田葉子、山方伸) 展示風景

Div1-2F-1

Div1-2F-2

Div1-2F-3

【DIVISION-1】2F 池田葉子 展示風景

Div1-IKEDA-1

Div1-IKEDA-2

Div1-IKEDA-3

【DIVISION-1】2F 山方伸 展示風景

Div1-YAMAGATA-1

Div1-YAMAGATA-2

Div1-YAMAGATA-3

【DIVISION-2】3F(小平雅尋、福山えみ、船木菜穂子)展示風景

Div2-3F-1

Div2-3F-2

Div2-3F-3

【DIVISION-2】3F 小平雅尋 展示風景

Div2-KODAIRA-1

Div2-KODAIRA-2

Div2-KODAIRA-3

【DIVISION-2】3F 福山えみ 展示風景

Div2-FUKUYAMA-1

Div2-FUKUYAMA-2

Div2-FUKUYAMA-3

【DIVISION-2】3F 船木菜穂子 展示風景

Div2-FUNAKI-1

【DIVISION-2】2F(榎本千賀子、坂本政十賜)展示風景

Div2-2F-1

Div2-2F-2

Div2-2F-3

【DIVISION-2】2F 榎本千賀子 展示風景

Div2-ENOMOTO-1

Div2-ENOMOTO-2

Div2-ENOMOTO-3

【DIVISION-2】2F 坂本政十賜 展示風景

Div2-SAKAMOTO-1

Div2-SAKAMOTO-2

Div2-SAKAMOTO-3

Back to top