あらゆる人間は未生の写真家であるだろう。

   それぞれ方法論も異なれば題材も多岐にわたる、「リフレクション」展の写真家たち。例えば、ある者は電車に乗って「丘」や「山」のつく地名の駅を見つけると降り、撮影をする。ある者は紀伊山脈のそれ自体魅力的であるに違いない小さな集落にわざわざ出掛けながら、自身が歩きまわる道や出くわした空間を撮影してまわる。その土地の魅力を報告するために、ではない。電車に乗るといった小さな行動の計画と目標はある。だが究極的に言って、彼らはどうも自明な目的を持たぬまま、そこここを眼差しているようなのだ。立ち止まって考えれば、こうした身のありようは実に奇妙ではないか。彼らは一体、何をしているのか。だがその前に、今回の企画が問題系とする、〈風景〉とは何か。
  〈風景〉は(少なくとも西洋においては)、〈主体〉の誕生、さらに言えば〈主体の内面〉の誕生とパラレルに浮上してきた近代の産物、近代の概念として出発したと言われる。人間主体は自己と未分化であった世界から理性をもって自らを切り離し、自己の観察の対象として世界を眼差した。その眼差されたものが風景である。外界とは人間にとって何よりも自然であり、だから風景は基本的に自然の眺めを意味した。人間は自らの身体を世界から分離させ、純粋視覚となった自らを引き受けて〈外界の世界=(自然という)風景〉を眼差す存在=主体となった。
  風景の定義に改めて触れたのは、人間と自然の相補的関係を浮き彫りにするためだ。人間が存在しなければ、風景は生成しない。風景が存在しなければ、人間は人間となることができない(外界という世界の存在を知らない人間が想起できようか)。人間と風景は共に産み落とされた、まさに双子。今回の出品作家たちも各々の仕方で、相も変わらず(・・・・・・)人間-風景の問題系へ向かっている。
  双子が辿るその後の運命を駆け足で辿ろう。双子の一方が主体となり、他方は客体として分かたれた時点で、両者には権力関係が発動した。外界たる世界、即ち自然は、人間とは異質な原理下にある存在として収奪され、破壊されていった。そしてこの片割れが失われかけてはじめて、双子の相補的関係が逆照射されてくる。ときは1960 年代から70 年代にかけて、アメリカで大きな地殻変動が生起してきた。人間の活動領域の拡大とともに自然は破壊されてR.カーソンの『沈黙の春』(1962)が書かれ、H.D.ソローの『森の生活が再読された。専ら自然を意味した風景の概念を、人々がその「なかに」在りさまざまなものと取り結ぶ関係性をも包摂するものへと拡張した「社会的風景」の写真も、この潮流で産み落とされた。
  だが、人間と風景の起源に遡る両者の相補的関係、そして拡張された風景で掴まえられる諸々の関係性から、より俯瞰的な〈写真のエコロジー〉の領域にまで認識枠を拡げてこそ、写真は生きられてくるだろう。潜在する関係性を見出す場を、一枚の写真の内部からイメージに帯電した現代社会の裾野にまで拡げるのだ。一枚の写真は、世界と隔てられ自律的に存在するのではなく、写真家の個の精神や身体の感覚、観者という他者のそれらや制度など社会、人間を取り巻く自然がつくる円環のなかにあり、潜在する結び目を可視化し、新たな意味を生成させて循環している。
  しかし、エコロジーは自然環境の範疇とのみ見做されているうえに、余暇活動の標語や商品の謳い文句として骨抜きにされ、その核心は今でも置き去りにされたままだ。グレゴリー・ベイトソンやフェリックス・ガタリが示したその核が理解されないところで、グローバルな越境が叫ばれながらも自然と人間の、人間と人間の間を分かつ宗教や人種や貧富の境界線を巡る政治や制度、感性が今なお社会を成形し、多くの人々を突き動かしてこんにちの袋小路を作っている。日々垂れ流されるニュースの映像がそれを補強する。だとするならばむしろ今こそ、関係性を前景化する風景の写真をエコロジーの越境性の強度において読むことの可能性を、愚直に探索するべきときと思われる。遠くのテロリズムから明るい消費文化のイメージまで、世界の固定化された像の循環する社会的空間のなかに、これらの写真家たちの作品を残響させること。写真をみることによって、写真家の身体の宇宙と世界の共振関係を観者が自らに折り返すこと。つまりは席巻するイメージに取り巻かれ囲い込まれた世界を搖動化し、世界を眼差す人間の原初へ降りていくステップを、彼らの作品とともに踏んでみること。日常の光景を見え難さと克明のあわいに引き延ばし宙づりにすること(池田葉子)。自分の住まいでもない集合住宅へ通い、その中庭に茂るありふれた植物に生命の循環を見届けること(箱山直子)。心理的余白と持続的テンションで空っぽなありふれた風景を転倒させること(大谷佳)。凝視の眼差しのうちに、蝶を羽ばたかせ世界を震わせること(小平雅尋)。カメラに自由を与える写真家の身体の運動と世界の身体=起伏をチューニングし、自己の諸感覚を世界に開くこと、それを眺めること(山方伸)。エコロジーを感受することは、自明視される境界を無化し、諸々の関係項の多数性とそれらの結ばれに目を凝らすということだ。エコロジーとは、人間が自らと共にある世界の中に潜在する多様な関係項をつかみとり、世界とさまざまに結び目をつくる、そのような空間を浮かび上がらせる技法、感性のレッスンでもある。
  「リフレクション」展の写真家たちは、自らの身体という自然と自らと対話する二重化された主観だけを頼りに、エコロジーを可視化する領域を写真で探り当てようとしているようだ。身一つにカメラを携え、自らが生きるこの世界を探索し、そこに潜在しながらもまだ現出していないものとの出会いに備えて歩き、のぼりそして降り、立ち止まり、眼差す。そのような身体の運動は、世界のなかに身一つで在りながら同時にそこここでさまざまな異他なる存在と結び目を結び生きようとする人間の根源的ありようを指し示している。そもそも人間が人間であろうとするならば、世界に結び目を結び棲み生きようとするならば、その者は世界に潜在する結び目を眼差す風景の写真家に限りなく近づいていくだろう。すべての人間は潜在的に写真家、未生の写真家である。
  最短ルートを狙い潜在するものを取り零す目的論的偏狭さを破砕しつつ進む彼らの作品は、人間のひとつの道程を刻んでいる。スピードと効率を志向する現代社会のなかで、在るものが無きものとされる社会で、メディア・イメージが社会を覆い尽くし逆説的にも現実を見え難くするなかで、相も変わらず(・・・・・・)写真家たちが風景に向かうのは瞠目すべきアナクロニズムであり、と同時に人が自らの置かれた世界で結び目を作り〈生きようとする〉からには、尤も至極な自身の根源的要求への応答とみえる。自己も風景も薄剥きの映像にされる時代に、飽かず風景を傾け歪ませ流動させて人間の自己と身体の感覚を孕ませ更新し続けること(相馬泰)。ひっそり佇む古屋を見つめ、遠さ/近さのアンビバレンツを対象に纏わせ、小さな歴史の時間を堆積させること(坂本政十賜)。「‐越し」の眼差しで、世界にある自己の手触りを確かめること(福山えみ)。複数平面の接合や不整合の交錯を視覚化し、住宅地という人工空間を眼差しのうちに再起動すること(榎本千賀子)。生の営みを二枚組の双子で産み落とし、そのヴィジョンに確かな生の手触りを賦活し巡らせること(船木菜穂子)。そのような写真は、撮影者本人の感慨や意図はどうあれ、社会的弱者を捉える写真よりもはるかに社会的で、その寡黙さはラディカルで、徹底的に個的に閉じてみえながら徹底して開かれてありうる。
  一枚の作品が抱き留めるものが、他の作品が映し出すものとすれ違い、結ばれ、残響しあう「リフレクション」展の空間。それは作品たちが互いに、そして我々の記憶や経験と結ばれて、多様な有機的結び目を作ったり解いたりするエコロジーを感受させる空間となることだろう。

日高 優(群馬県立女子大学准教授)

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