リフレクション 写真展 / director 湊雅博

「風景からリフレクションへ」 日高 優

 普段は別個に活動する四人の写真家たち。その各々が風景に向かう態勢を協働的に生成させること。写真家たちが世界から切り出してきた一片一片の写真を、風景を、展示空間で緩やかに組織し、ひとつの磁場を拓くこと。そのようにして写真の本性と可能性とを問い、写真家という人間をみつめ続けること。それがディレクター、湊雅博がこの企画展示に賭けるものなのだろう。写真家たちは、その企図を自己の態勢に浸透させ、また新たに世界に向かってシャッターを切った。リフレクション展を支えているのは、このような人々の愚直さであって、活きたまっすぐな活動は愚直にならざるを得ない。このグループ展は、単なる寄せ集め興行ではなく、求めるべきを求める試みとして立っていると観える。

 では、なぜ、〈風景〉か。風景だったのか。それは、湊のなかにも、これまで織り成されてきた風景と写真とを巡る言説のうちにも、風景の問題系を辿ることは写真の本質と可能性の探究へと連なるという直覚や思考、論理があるからに違いない。そして、人間の探究へも。こう考えるのは、風景という概念の成り立ちによれば、全く正当なことだ。2013年のリフレクション展に寄せた拙稿に記したように、写真は究極的には私たちの外界たる風景を映し出すもので、人間は皆、外界=風景に向かう「未生の写真家」なのだから。

 ただ、この〈風景〉なる物言いには気をつけねばなるまい。加えて、風景を巡る思考はもはや飽和し、手詰まり状態とも思われる。そして、何よりも重要なことには、風景の語が描き出すとされる概念は、決定的に何事かを取り逃がしてしまうようなのだ(風景の袋小路については、倉石信乃氏が昨年の展示のテクストに、鋭敏な手つきで書きつけている)。

 風景の概念は、西洋近代における主客分離の思潮のなかで成立したと言われる。人間主体という概念が誕生したのと呼応して、その前に立てられる客体として、風景概念が誕生したのだ、と。さらに風景は、そこから切り分けられた主体がそこに多様な意味や美的価値、イデオロギーを配置した形象、文化的で政治的な織物である、と。主客分離の志向、その先での主体から客体への一方向性の強調は、純粋認識主体たる人間が純粋かつ客観的に計量化する物理世界を思考する科学を発達させ、テクノロジー開発を推進した。私たちはその恩恵に預かっているけれど、人間を純粋認識主体と、風景を純粋客体と切り分ける分離が行き過ぎると、私たちの生きられる経験は掴み損ね続けられるだろう。だから、かつての拙稿のなかで私は、人間と風景とを分かつ分割線の方ではなく、人間が存在しなければ風景は存在せず、風景という外界、世界が存在しなければ人間は存在しないという両者の相補性、双子のありようをこそ強調し、それを写真の経験のうえに描き出そうとしたのだ。だが、これも不十分。風景を巡る思考の躓きを越え、抽象的思弁に囲い込い込まれる世界と写真とを生きられた経験に復帰させるには、世界は人間も含めてただひとつのものであること(アンリ・ベルクソンの言う、「イマージュの総体」)から掘り進めねばならないだろう。

 物質の科学が明らかにし、私たちも自身の経験から疑うことがないように、無論、世界はそれ自体として、私たちの眼に視えるように生彩ある姿で在る(しかし、西洋哲学の究極化した思弁は、世界のありようを〈主体・客体・表象〉の三項関係に分割還元してその関係を説明しようとし、ただひとつの流動し持続する世界それ自体を取り逃がしてきた)。知覚像は、単に脳内物質が生み出す幻影や作用ではなかろう。さらに、この世界は物質からなるが、そこには他のものと共に、私たち生命体の身体という特権的物質も抱き込んでいる。「特権的」というのは、それは、他の物質とは異なって知覚を行い、それが知覚する像は私たちの身体が僅かに変化すると、その全部がことごとく変転するような中心の位置を占めていて、他のすべての像がそれに従って規定されるからそう言うのだ。「あたかも万華鏡を回転したように、その運動の各々に応じて全てが変わる」(ベルクソン(田島節夫訳)『物質と記憶』)。身体をもった人間にとって、視覚は、視覚像たる風景は、人間と無縁に超然とあるのではなく、知覚する人間の身体と相関的に在るのだ。これは切れ目ないただひとつの世界で起こっていることで、このような視覚像を、主客分離を要件とする「風景とそのまま呼べないというなら、「新しい風景」とでも何とでも呼べばいいが、正確にはそれは、〈リフレクションとしての世界〉と言うべきものだ。事物は、それに当たる光を遮断し反射することで、初めて可視化される。それがリフレクション反射する光の総体において、モノは知覚され捉えられる。そのようなモノの集合である世界とは、私たちにとって、充満する光のなかでは写真が写らないのと同じく、潜在性の次元に実在するが、光を遮断し縮減してなされるリフレクションによって初めて知覚され掴まえられ生きられる。光の痕跡たる写真は、このような世界のありようを自らの上に照らし出す。写真とは、潜在する世界がさまざまな度合いで現実化され知覚された一片のイマージュなのだ。リフレクションを知覚するのは私たちの身体であり、リフレクションを通じて私たちは世界に、写真に出会う。

 世界はただひとつの切れ目なきものとしてあり、絶えず流動、変化し持続している。風景と名指され区切られるものが不動の客体と思われても、当の風景の形象を結ばせ知覚させる無数の光は四方に散乱し絶えず運動しているのであって、その光の波動を、それが放つ多様なニュアンスを圧縮することで私たちは色彩を、ものの姿を固定化し、運動に静止を仮構して視ている。視覚とは、ベルクソンが言うように、物質を成す質料(究極的かつ端的に言えば光)を縮減することで遂行されるシステム、量子力学が詳らかにするように粒子でもあり波動でもある光を、減らすことで視えるようにする働きのことだ。例えばモノを、その色を知覚するのは、赤、橙、黄、緑、青、紫と無数の色彩に分散する光を縮減し、その波の振動を圧縮し、ただひとつの色を固定的に引き出す身体に応じた知覚の働きに依る。この縮減をおこなう人間の自然な知覚は、意識的であれ無意識的であれ、行動の有用性を尺度になされる。熱を入れ授業する教師は、天井の染みでも机の傷でもなく、学生の表情やノートをとる手元を観る。行動の有用性は、人間の欲望や意志、快不快の感覚といったものの総体として形づくられ、縮減の尺度を成す。他方、写真映像は原理上、身体を欠いたメカニカルで無差別的、等価に光量を縮減=知覚するカメラという機械の知覚に依っているから、カメラは人間の知覚を超えて視、それが写真に写し出される。写真を撮影するとは、機械の知覚に写真家が自らの知覚を接続して為される一連の営為であって、写真家という人間は、写真の本性を飼いならしも殺しもせず、能動よりも受動に身体を開き、人間の視覚の縮減を超えて潜在性の次元を垣間みるために写真の知覚を賦活していく。

 愚直な写真家たちは、風景の客体化と固定化の力学の先で、こうした写真の秘密を感受して仕事をする。東京の住宅地を撮影してきた榎本千賀子は、新潟での新たな暮らしのなかで、風の運動が造形する砂地にカメラを向け、絶えず流動する世界の位相を一層明瞭に前景化させた。砂に刻まれる風紋、木々のなびく多様なベクトルをとらえた。カメラを持つ榎本の知覚=写真は、さらには人工のコンクリートやアスファルトにおいてさえ、そのひび割れや継ぎ目、諸々の傾きを捉えて、行動の有用性がその堅固さや不動性を視るところを突破し、潜勢する運動の力線を辿る。さまざまなニュアンスを放つ無数のリフレクションは、ひとつのものとして生きられる世界に潜在する数多の力線を描いている。

 田山湖雪は、潜在態から現実態へと向かう力線が縮減を超えて観られ、実際に生きられ活用された土地を探った。位置移動した川の、視えないが土地に現存する潜在的運動が、現在の景観に見出されてゆく。伏流や扇状地を成す川の力線を賦活し、人間は茶やシイタケを栽培する場を拓き、川を材木を運ぶ通路とした。川との関わりに応じて展開される暮らしに分け入る写真。自然と人工の力線の質的差異、際(きわ)への眼差し。民俗学も思わせるが、何よりも潜在性が現実化される運動を感受する感度がこの写真家の仕事を生み落している。

 写真は、それが映し出すものに記号を読み取らせるけれど、同時に記号に縮約されない質料、意味の手前で弛緩し流動する世界の質料=光の運動を受け取る感光板だ。由良環の今回の写真は、従来の彼女の作品のように都市の人工建造物という記号に自らを差し出しながら、しかしその実黒く濡れたただひとつの世界の弛緩した皮膚となって呼吸し、波打ってもいる。世界の大都市に通底する普遍の形象を探り現代生活を読み解く理知的なこの人の眼差しは、慌ただしく行き交う交通の拠点、羽田空港に来て、喧騒のただなかに静寂を聴くように、金網越しの視線で無機的空間に意識の流れを浸透させ、羽田に人工的都市生活の記号を纏わせつつも滑走路際の水辺を辿って漁村でもあった潜在して現存する土地固有の古層を浮き上がらせる。

 人間の行動がつくりだす、いま現在に結実し現実化された層と、過去に沈み込み堆積して潜在する記憶の層。緊密な意味記号で読み解かれる位相と、有用性と無縁に弛緩する質料の位相。写真家たちは、潜在性と現実化の二極を巡る世界の二重のありようをそれぞれに顕現させるが、阿部明子は重層化による人工的操作で世界に一層の深さを仮構し、それを感受する心的厚みを増幅させ、デジタル画像に厚みを与えた。阿部は今回の展示のために三人の協働者のフィールドへ赴いて撮影し、自他の知覚と記憶とを共鳴させ、さらには観者のそれらを手招きしようとする。その写真は物質と記憶の世界の二つの系を抱き込むかのようだ。〈既視感〉と重ねられ錯乱を強める映像の層、ニュアンスを付す色彩は、この写真家のものでありながら、写真家たちの別個に伸びる生の力線を共振させ、また緩やかに束ねている。

 固定化され静止する現在を、原初に実在する潜在性の動性に送り返すこと。風景を、原初のリフレクションに送り返すこと。そこに、創造的営為が拓かれている。

日高 優(立教大学准教授/写真批評)

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