坂本さんの写真は家を撮っている写真には違いなくて、外壁のカラーリングの独特のパターンとか、奇妙な建て増しのおかしさだとか幾らでもそこに写っている現実の特殊性について話が出来る。こういった話が出てくるのは写真がそのような質を持っているからに違いない。これはDivision1で展示した山方さんの写真にも言えることだったが、それとは全く別のまなざしも二人の写真からそれぞれ立ち上がっていて、この写真はこういうことだと簡単に話を積み上げることができない。写真はいつもそうだ。でも、積み上げなくても広げてみることはできるだろう。
私は坂本さんが撮る家そのものが、人の顔に見えて仕方がない。ポートレイトを撮るように家を扱っているような気がする。こんなことを坂本さんに言ってみたら、船木さんが以前続けていたシリーズで撮っていた女性のポートレイトが、ポートレイトじゃなくて風景写真に見えると言い出した。その言葉に私も一瞬にして彼女の撮る女性像が風景写真に見えてきた。これは何だろう。画面の作り方、扱い方だろうか。単に人物の説明ではない写真。画面全体としての「見え」を整えた画像とでも言えるだろうか。それが「風景」なのだろうか。
船木さんの今までの作品は女性の写真と風景の写真がいつも対になっていたようだ。今回の展示は風景だけで構成しているが、それらの写真は対にする目的からもれてしまった風景写真ではなくて、全くそれと関係なしに、その場で撮らずにいられなくて撮ってしまった写真だと言っていた。「撮らずにいられなかった写真」。私の場合は、自分自身の目的から離れて「撮れてしまった」写真をどう捉えるか、意味や理由を見つけることにいつも考えあぐねていた。しかし、それらの写真こそ写真の自由を獲得しているように思えてやるせない。撮れてしまった写真の意味や理由を自分で知ろうとするのは、それほど重要ではないのだろうか。ふと、「写真の強度」という不思議な言葉とともに、榎本さんと相馬さんの写真が頭をよぎった。 小平雅尋