リフレクション 写真展 / director 湊雅博

リフレクション展レビューのお知らせ!

[ 2016年12月16日 ]

リフレクション展開催中は多くの方に足をお運び頂き各作家の作品をご高覧、ご講評を承り、ありがとうございました。
飯沢耕太郎さんがartscapeレビューに展評を記載していますので、ぜひご一読ください。
http://artscape.jp/report/review/10130119_1735.html

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ディレクター 湊 雅博

リフレクション写真展2016の展示風景を掲載しました

[ 2016年12月5日 ]

リフレクション写真展2016の展示風景をREVIEWに掲載しました。

 

リフレクション写真展2016 ギャラリートーク

[ 2016年12月3日 ]

撮影:相馬泰

撮影:相馬泰
左から:高橋、丸山、寺崎、若山

会期中の11/12にPGIギャラリーディレクターの高橋朗さんをナビゲーターとしてお招きし、ギャラリートークを行いました。
それぞれ撮影場所や撮影経緯などについて説明し、そこから高橋さんが各々の作家・写真に対して話を掘り下げていってくださいました。
全員で話すというよりは各々ナビゲーターの高橋さんと対談するかたちになっていたので、もう少しお互いに言葉を交わせればよかったのかもしれません…。

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寺崎珠真

展示を終えて覚書のようなもの

[ 2016年11月24日 ]

リフレクション2016に参加いたしました寺崎です。会期中は多くの方にお越しいただきありがとうございました。
会期中に更新することができず遅くなってしまいましたが展示を終えて思ったことなど、まとまらなかったので箇条書きですが書きます。
内容がほとんど個人的なことになってしまいました。すみません。
 

正直、作家同士が作品に表れるようなかたちで影響し合うのは難しいと思っていた。
しかし今回リフレクションに参加して、異なる写真の在りようや他のものの見方を知ることができた。
他の二人の作家が平地で、且つ水平垂直でものを見ている(写真を撮っている)ので、
結果として自分は身体性(というよりも肉体性?)と地勢の高低差の部分を強調させるような選びになったように思う。
「自分の写真の持っている幅」の意味が展示が終わるころになって少しわかった気がする。
スペースの関係で二段組みにしたがあまりよくなかった。やはり一列に並べたい。
 

(トークのとき、)自分自身でも自分の写真はスナップ写真でもある、という自覚はあったのでスナップ写真と言ってしまったが、スナップは手法のことであるし(風景写真は風景を撮った写真であって撮影対象のことを言っていると思うから)、もちろん風景写真であるとも思っているので、なんか違ったなと後から思った。
「風景写真は考察の結果なのであって明確さがある」とのことで、自分は他の二人に比べて対象と向き合っていないというようなことを言われたような気がする(これはちゃんとメモしていなかったのでどのように言われたのかは覚えていないが)。
でも、写真は撮って思考して撮って思考しての繰り返しであるし、他の二人のほうがコンセプトに沿い半ばすでにあるイメージを撮っているように思っていたので、これについては腑に落ちなかった。
自分自身に思考が足りないのは重々分かっているが、対象とは正面から向き合っていると思っている。
歩いては立ち止まって考える前にシャッターを切りまたすぐに歩くというのが自分の撮り方であるが、長居をしないのは拘りすぎると自意識が出てきてしまって風景がどんどん遠ざかってしまうからで、目の前のもの、風景から発せられるものに反応しているつもりだし、一瞬でもそこに対話もあると思っている。
風景はもともと存在している客観物ではなくて、そのときそこにいる自分(もちろんそこで生きている人々も含めて)人間との相互関係の中で現れるものではないのか。
 

自分にとっては出てきた写真よりも、撮ること自体(行為)が一番大切なのではないかと改めて認識した。少なくとも今回関わった二人と比べると、その部分が大きいと感じた。
撮った写真に意味が、価値があるのかないのか、それはわからない。わからないけど写真を撮っている。一種使命感めいたものかもしれない。
だったら撮っているだけでいいじゃないかなぜ発表するのかと言われるが、自分なりに新しい時代の風景とはなんなのかを考えてやっているつもりであるし、撮影と同じで作品も相互的な関係の中で成立していくものだと思っているから、とにかく写真を自分の手から離して外に出してみたいので発表をしている。
しかし、そうする前に、
具体的なことを撮っているようで具体的ではないのだから、どういうことをしたいのか見えてくる仕組み(?)をつくること。
どういうことを人に反応させるか、写真を見せた結果として何を起こさせる?見せるか?を自分の中できちんと考えるべき(それは必ずしも他人とイコールになるものではないけど)。=写真における画面のおもしろさがどこへ行こうとしているのか。
をきちんと考える必要がある。
とにかくきちんと自分の写真を客観的に見ることができるようになること。
 

映像(動画)の現代において、静止画を見ることの意味や、おもしろさは何か。
 

目下具体的に考えることやること
・プリントの仕方や展示方法を見直す。
(自分では撮影時の風景と向き合う感覚に近いのは大きいサイズだと思っていたが、別に自分は自分の感覚を共有したいわけではないのだし、
大きいと逆に細部が見えなくなるとの意見もあり、写真で何がみえるのかを考え適切なサイズや額などを検討すること)
・モノの質が違うところで写真を撮ってみる。
(いま風景写真は地方ばかりで都市を撮っている人がそういないという話もあったので、
一度都市で撮ってみようと思うが、都市はその場に長く留まること自体が生理的に難しいのでできるかどうかはわからない…)
・カメラを替えてみる。

 

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寺崎珠真

「リフレクション写真展2016」開催します

[ 2016年10月3日 ]

「リフレクション写真展2016」について情報掲載しました。

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2015リフレクション・反省会

[ 2016年1月30日 ]

2015年のリフレクション展では、展示最終日17時より、今回の展示全体を振り返るトークを行いました。

PDFファイル

突発的に行われたこのトークでは、個々の作品についての話題を中心に行われた12日のトークでは踏み込むことができなかった、互いの作品や、展覧会全体の構成を中心的な話題として、疑問点や意見を交わしました。ほとんど外部の観客がいない、準備段階のミーティングにも近いリラックスした雰囲気の中で行われたトークでは、当たり前のようではあるものの、作家同士が互いの制作プロセスに非常に強い関心を抱いていることを再度確認できたような気がします。また、この展覧会を通じて浮かび上がってきた問題や課題、この展覧会そのものを対象とする作品を作った阿部さんの特異な創作に対して、他のいわば「普通」の創作を行う作家はどのように反応し得るのかという問題や、グループ展の難しさや可能性についても、まだまだ語り足りないところばかりではあるものの、4人の間で改めてそのありようを確認し合ったのだと思います。

リフレクション展を終えた今、私自身は、創造行為の動的な側面、渦中にいる自分自身でさえ掴みにくくコントロールしきれない、創造のプロセスの中に入りこむ偶発性に関心が高まっているのを感じています。そして阿部さんをはじめとするリフレクションの仲間たちと協力しながら、個人の制作と、今回の展示のような協働的実践を積極的に交わらせて、この関心をさらに育て、新たになにものかを生み出したいと次の活動を計画しています。

榎本千賀子

 

2015リフレクション・ギャラリートーク

[ 2016年1月30日 ]

撮影:相馬泰

撮影:相馬泰
左から:由良、田山、榎本、阿部、大日方

展覧会期中の12日16時より、大日方欣一さんをナビゲーターとしてお招きし、ギャラリートークを行いました。4人の作品が交じり合う複雑な展示となった今回の展示について、4人それぞれの作家が自分自身の作品について説明し、その後リフレクション展という経験について語りました。

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準備中に繰り返し話し合って共有していたことを、その過程を共有しない大日方さんの視点を介して、観客の前で見つめなおす機会であったと思います。また、由良さんの地面が濡れている、田山さんの写真に三つ巴のような画面構成が多い、阿部さんには家があるが他の3人には家がない……等の指摘なかに、大日方さんが写真を見る目を、あらためて見てゆくような会でもありました。
さらに、ディレクターの湊さんもこれまでの展示、そして今回の展示の企画について、企画者の視点から振り返っています。

トークをテキストにまとめました。
PDFファイル

榎本千賀子

 

お知らせ/湊雅博

[ 2016年1月17日 ]

「リフレクション』写真展2015には多くの方が足をお運びいただき参加した作家に取って良い刺激を得た展覧会になりました。ご高覧及びご講評を多くいただき本当にありがとうございました。

展覧会レビューを飯沢耕太郎さんがartscapeレビューに寄稿されました。

http://artscape.jp/report/review/10118491_1735.html

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リフレクション展2015の展示風景を掲載しました

[ 2016年1月5日 ]

リフレクション展2015の展示風景をREVIEWに掲載しました。

企画展「リフレクション」2015 開催します

[ 2015年11月6日 ]

企画展「リフレクション」2015 について情報掲載しました。

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言葉との出会い

[ 2014年12月30日 ]

川で撮った写真を見返し、プリントする。手元にある塊が現われる。これらを前に息を吐き、自分のこと、自分の場所のこと、写したつもりになっていた風景のことなど思いかえす。

『….人の死を想う時、風景はとてつもなく鮮やかに見える。葉を落とした樹の枝が、なんと鋭く空を切ることか。逆光の新緑が、なんと目映いことか。なぜか無性に絵が描きたくなる。絵を描く訳が、ここにはある。それは、覚えておくべきことなのだ。』

きのう、画家の向井三郎さんという方のこの文と出会った。そろそろ展示する日がちかいので一旦おわりにしよう。いつもスクロールして見ている画像を、わざわざ紙に出し直し、壁に貼り、体を前後左右に動かして見るとは何ぞや。横澤

詩の波 詩の岸辺/松浦 寿輝

[ 2014年12月22日 ]

松浦 寿輝 「詩の波 詩の岸辺」p174より引用

観念的な詩語の息苦しい持続の中に、様々な他者のテクストが呼び入れられ、種々多様な「裂開」が作り出される。だがそうやってページの上に空白が開かれるや、それはまた言葉それ自体によってただちに閉鎖されてゆく。

今月は、観念的ないし抽象的な作風の詩人の仕事がたまたま三冊並んだ。素朴な抒情や感傷は単なる自己満足に堕しやすいが、他方、硬質な観念の遊戯もまた、ややもすれば空転し、ナルシシズムの閉域に案外と自足しがちなものである。現実や他者の突きつけてくる抵抗感が表層言語の自動運動に歯止めをかけるということが、なくなってしまうからだろう。これら三冊は、どれもそうしたナルシシズムの罠の所在に十分に自覚的な作者によって書かれていると感じた。

森下

[ 2014年12月8日 ]

「ヴァナキュラー(土地特有の)」という言葉の面白さは、それがもともと言語学の用語に由来する所にあります。現地の人々が話す言葉や共通語のバリエーションを意味します。ロサンジャルスを車で走っていると、建物が自分に語りかけてくるような気がします。人が施した窓辺の飾り付けから、建物の外観(もちろん、人々は貸アパートに住んでいるので建物や外観を変えることはできませんが)など、特定の場所に独特な「ヴァナキュラー」な雰囲気があるのです。新しい都市を訪れると、建物の形状から語りかけられる言語が、不協和音のように押し寄せてきます。建築物を観る時やその写真を撮る時に、それは常に興味を刺激することのひとつでした。なぜならそれは言語学と関連しているし、人々が抱く願望や文化が無意識的に自身についてどのように考えているかとも関連しているからです。広い意味でこれは風景の中に見られるとても素晴らしいボキャブラリーなのです。ですが建築とは(所謂、造られた環境とは)、風景にも声を与えるという意味でとても重要です。よっぽどの荒野にでも行かない限り(私はほとんど行きませんが)、風景とは常に人によって造られています。その風景には音質や音調が現れるのです。これはある有名な逸話で、とある音楽家がエンパイアステートビルディングの展望台からニューヨークの音を聴いて、「Eシャープ(E#)だ」と言ったという話があります。どんな風景にも、そこに特別な音があるのです。

私たちの風景からはどんな音が聞こえるのか. 不協和音かも知れん..  横澤

DEVISION-1の作家について思った事

[ 2014年12月7日 ]

森下さんに習って私も同展示作家についての私的感想を書いてみようと思います。

 

金子泰久さん

細部に注目し過ぎてよく解らない。それがどこであるかという事に作者が頓着していないにも関わらず、そこがどこなのかという事を見ている方は何故だか興味が湧いてしまう。それは多分、個展で行われている展示方法(何だかいまいち掴み所のない小説めいた文章がドカンとある)に起因するのかもしれないけれど、私なんかは特にそういった仕様に翻弄されてしまう。
撮影した時期で色の傾向が違っているのも面白い。大体が沈んだ暗めのトーンなのだけれど、逆に実際の見た目より少しだけ明るくしたらどうなるのかな?とか考えてしまう。ある意味見えにくさの様なものによって人の視線を泳がせる作戦としてはどちらでも良いのかなとか勝手に思えてしまっている自分は安易なのかもしれない。

 

森下大輔

何故だかもの凄く写真らしい気がする。なんて事を書いてしまうと「写真らしさとは?」なんて質問をされかねないのでこの段階でお断りをさせてもらえるとありがたい。その、写真らしさというのは結局物質性(これもまた本人に突っ込まれかねないので勘弁)なのかなと思えてしまう。制作過程を聞いて、なおさらその思いが強くなってしまった。
いわゆるファインプリントを嫌う?という事はそこにケミカルであるからこそ自身の身体によって、或は化学現象を用いて画像をアンコントロールする事の偶然性の様なものを好んでいるという事で、それは撮影の場合でもあるのだろうけれど、もの凄く日本写真的写真活動なのではないのかと思えてしまう。コントロールをしないというコントロールという印象を覚える。トラディショナルな気がしてならない。そして、私は意外と手が写ってるシリーズが好きだった。

 

横沢進一

川だから好き。今回は全て荒川という事でどう見ても私には「川の写真」でしかなくて、とても好きだという私情は別にして、一番普通?に撮っているにも関わらずよく解らない写真だなと思えてくる。目が疲れてくるから見る事を諦めそうになってしまう。それは多分しっかり写っているからなのかもしれない。草木の一つ一つがしっかりくっきり輪郭をもって「もういやだ」と思う程にあるからかもしれない。(これはシャフトというアニメ制作会社のやり口と似ているのではないのかと不意に思ってしまった。)
とにかく見ていて疲れるという事だ。それは多分私達がいかに見ていなかったかという事の裏返しで、見る事を強制された時に気付く外界の煩わしい程の情報量の確認なのではないだろうか。

 

DEVISION-1の出展作家はこれを書いて思ったけれど、意外とまとまっていない。

金子さんは世界をもっと見るべきだと言って細部を適度のに強調しながらその複雑さを問いている様に思う。

森下さんは現実を写したはずの写真に悪戯をする。その作業は見ている私達に対して行なわれた事だと考えると「俺の世界を見ろっ!」と世界を改変する強者にも思える。

横澤さんはただ撮っているだけの様に思えるけど、その取り口がもの凄く整理されていて意外とデザイナー感が出ていてちょっと嫉妬する。

こうやって書いてみると色々思う所があったなと思えてしまう。どこかで一度作家全員で公開討論会っていうのもアリなのかなとかなんて思えてしまう。

山下隆博

村越氏と山下氏の作品について

[ 2014年12月7日 ]

村越としや、山下隆博。普段あまり他の写真家の作品を見ないので、今展の打ち合わせにおいて両氏の作風にはじめて触れた。展示前のミーティングの感想をおおざっぱに。

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村越氏 渡辺兼人を彷彿とさせる、スタンダードな自己愛を基調とした、落ち着いた視線。だが渡辺ほどの身震いはない。でもこれはこれで静か。悪くない。しかし福島という物語がなかったらどうなのか、という疑問は残る。ほんの兆しでいい、作品を成立させる一歩手前、一歩先に破調があればと思う。それは当人ももちろん感じている点だろう。自分の身体性にうっすら飽きつつ、視線を飛ばしてほしい。

それでも彼が一貫して発表し、本を作り、自分のスタイルを確立せんとする姿勢には打たれるものがあった。私はそういった実際的な動きをどこか軽んじ、疎んじ、良きにつけ悪しきにつけ自分の求める質を追ってきた。でも、そればかりじゃ成り立っていかないな、と気づかせてくれたのが、とてもありがたかった。

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山下氏 軽妙な人柄とは裏腹に、至ってまじめな作品群。みんな好きになるんじゃないかな。泣きの塩梅が少々気になるが、彼の写真にはいい性質の軽みがある。それは村越氏の、現実的な下へ向かう重力、もしくは写真の表面へ向かう重力とはまた異質の、やさしい重力とでも言おうか。ハートは熱く、でも頭は冷静に、酒で少々煮えているけど。

自分が今いる場所がぜんぶドキュメンタリーなんだ、という開き直りをもっと受け入れたら、もっとずっと面白い作家になる気がする。社会的な言説も、個人の感情も全部俺の写真で翻訳してみせる、くらいの。それくらい思わないと釣り合わないほど優しい。その優しさを武器にしてほしい。

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またなにか思ったら書きます。 森下

[ 2014年12月5日 ]

このあいだ横澤さんと飲んでいて、なんで川辺の写真を撮るようになったのか尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。お話っぽく書くのも違う気がするので、断片的に記す。

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病の父、その腹に溜まる水。だが腹に水が溜まっているにもかかわらず、「もっと水をくれ」と繰り返す父。

父の死。鬱っぽくなる。

そして津波。また水だ。水ってなんなんだ。このからだもほとんど水だっていうし。

 

そろそろ外に、写真撮りに行くか、じゃあ川だ。水があるし。

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森下

リフレクション展2014の展示風景を掲載しました

[ 2014年9月16日 ]

リフレクション展2014の展示風景をREVIEWに掲載しました。

 

座談会

[ 2014年9月1日 ]

今回のリフレクション展に参加したメンバーはどちらかというと口数の少ない作家が多く、毎月のミーティングでもあまり活発な議論にならなかった。それでも三度目の参加となる横澤さんに言わせると、毎回かつてないほど写真について話してる、とのことだったけれど、私にはどこか物足りない部分が残ったので、展が跳ねたその足で、打ち上げ兼座談会を開いた。お疲れさま、とあっさり別れる前に、もう少し腰を据えて話をしましょうと。

が、あてにしていた店がお休みで、いつもの懐メロ居酒屋になだれ込んだのが失敗だった。BGMの音量があんまりにも大きく、地域の祭りの打ち上げも賑やかで、隣に座った人の声しか聞こえない。山下さんは個展も重なっていてぐったりしてる。とにかくレコーダーで録音こそしたものの、ほとんど全体の会話は記録することができなかった。結局自分が場所を動いて個々と対話するしかなかったのだが、それでもあのまま終わってしまうよりはずっとよかった。すべてのわだかまりがほぐれたわけではないけれど、やっと写真の話が出来たように思うし、とにかく時間をかけて対話することでしか納得できないものもあるということだ。

どうにも話が断片的でとりとめがないので、拾えるだけ拾ってゆく。つながりもまとまりも度外視だ。また、自分がレコーダーを持って移動していたので、どうしても森下に対する言及が多くなるのもご容赦願う。

私が気になっていたのは、金子さんが展示構成を決する最終段階で自身の先生である金村修氏に相談し、その指示に従ってそれまでのプランをがらっと変更させたということがひとつ。

もうひとつは、金子、横澤、森下の写真に対する態度と、村越、山下のそれの間にある差についての議論が皆無であったこと。この二点だ。そこまで辿り着ければいい。ひとまず公開。時間をみつけて随時更新する。

まず金子さんの問題だが、これはやはりいただけなかった。私は「金子さんは旗を掲げてない。だからどんなに言葉を費やされても届いてこない」「あなたはまだ写真を引き受けていない。写真学生なんだという認識でいいのか」などと酔いに任せてかなりひどいことを言った。しかし本心だった。湊さんも言っていたけど、いつも逃げ道を用意して制作に臨んでいるようなところがあるのではないか。今後金子さんがなるべく早く金村さんから離れて、自分の道を歩むようになることを願う。途中から席が離れて、声が届かず興味も薄れてしまったので、最後までフォローしきれなかった。

湊→金子「誰に頼まれてやっているわけでもないのだから、どうせやるなら大暴投でもよかったのでは?」

金子さんの声が拾えていなくて、反論を書き起こせないのが申し訳ない。だがあまりはっきりした反応がなかったのも事実だ。

森下「反論してくださいよ」
調「当初の打ち合わせでは、いくつかの切り口で作品がでてきたのに、あるときガラッと変わった。それはなんでんですか?」
金子「」

ディビジョン1と2の差異に関しては、そもそも制作にかかわる姿勢が違うのだから話にならないというのが当然で、そこを議論してもどうにもならないという前提があった。だがその前提を成立させているいる写真の使用方法をもうすこし詰めて比較するべきだったのではないか。写真の表面にある情報や美しさをどう整理して物語に導くのか、もしくは写真そのものからたち現れる質に導くのか、その仕方が重要なのだから。いくらかそんな会話もあった。

森下「山下君は借り物のスタイルをなぞる必要はないのでは?」「いいキャラクターを持ってるんだから、それを前面に出した方が面白いんじゃない?」「絵で勝負するの?それとも物語なの?」

相馬「無理に物語と非物語に分けることないんじゃない?」森下君には森下君の物語があるでしょ」
写真から豊かさを引き出そうとする相馬さんのスタンスはよくわかる。
森下「一枚の写真で勝負しなくてはいけないのでは?」
山下「一枚の写真で勝負するタイプは、今回は森下さんだけじゃないですか?
村越「実は俺もそっちかも・・・」「俺が文章を書いちゃうと・・・」「圧倒的な一枚と、いろんな100枚だったら、僕は100枚なんです。それを連ねてゆく過程も、僕のやりかたなんです」

森下「村越君にとっては、リズムを刻むことが大事なの?」
村越「山に財宝が眠っていて、森下さんはその財宝に一直線に向かうけど、僕はその財宝へ向かう過程も含めて自分の作品だと考えているんです」相馬「前は森下君の作品はもっと一枚完結型だったけど、最近だんだん自由になってきたよね」

相馬「村越君はあまり多くは語らないけど、すごくよく考えて作品を作ってるよね。横澤さんはもっと本能的な感じがする」

調「今回の展示で、例えば三階の展示だったら、写真に埋もれるような展示になるのかな、と思ったら、意外とすっきりした」
湊「あそこからはみ出すぐらいのことができたらよかったんだけど。見る人によっては、悪くない展示だと思ってくれるみたいだけど、もっと個々の作家が踏み出してもよかったのでは。それがもうひとつ伝わってなかった。来年の課題。作家ってのは自分の世界を大事にしないといけないんだけど、それがもうちょっと混じりあっていってほしい」

相馬「僕は今回の展示ではどの作家を見てもそれなりに自分の世界観を構築してきているので、、そんなに失敗はないだろうと。三階は、単純に会場に占める白の量によるのでは?。あと、金子さんが最初の頃のミーティング持って来てばーっと並べてくれた作品は迫力があってとても良かったから、これで行くかな、と思っていたら最後で急に変わったから(これは森下も横澤も同感)」「三階は三人とも、みな雑然とした感じだったから、そのままいければ良かったのかもね。それぞれにみな器用だから、最後はすっきりまとまっちゃった。逆に好き勝手やった方が良かったのかも」「二階の二人は、できればもっとお互いが勝手に好きなことをやったほうが面白かったのかもしれない」「横澤さんの写真は実はラフで荒れた写真だから、あまり整然と並べない方がよかったかのしれない。それこそでかいのピン張りとか」「なんだかんだで、一年って長いでしょ、影響されて変わっていくでしょ。その変わりかたが重要なんだと思うけど」「そうじゃなかったら、自分の得意なパターンの写真を並べたりしちゃうでしょ」「森下君はどこまで自由にできるかって感じなの」森下「うーん、4x5で撮りはじめたのはとても大きいのですけど・・・」

相馬「トークでは、歌になればいいって言ってたけど、歌じゃなくて共鳴すればいいんじゃない?ばっちりだと音が消えちゃうでしょ?共鳴しても、世界と自分がズレていて、それがいいんじゃない?」
森下「あまりフィットしないんですよ。音がズレてても、反響していても、それが僕の歌になんじゃないかと」
相馬「共鳴して音が消えちゃう写真ってあるんじゃないかな。消えちゃってもいいじゃん。写真が残るから」

森下

お知らせ/Director 湊雅博

[ 2014年8月2日 ]

2014年5月13日から5月25日まで開催された「リフレクション」展も昨年と同様に、多くの方に足をお運びいただきありがとうございました。

昨年の「リフレクション」展については、レビューをアサヒカメラ2013年6月号の「展評13」誌面で取り上げていただきましたが、

今回6月に日本写真協会が発行した「日本写真年鑑2014」の誌面において

「12氏の2013写真ベスト3」という記事で

「飯沢耕太郎+大日方欣一+金子隆一+楠本亜紀+小林美香+髙橋義隆+鳥原学

+光田由里+村越位光 +森本悟郎+柳本尚規+吉川直哉」

大日方欣一氏から「リフレクション」展がベスト1に選ばれました。

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7月19日発売の日本カメラ2014年8月号 (p172-173) で、写真家たちによる「風景」への試みと題して「リフレクション」展ディレクターの私と同時期に新宿で開催された「NODE」展代表の中里和人氏との対談が掲載されています。

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以上の掲載誌を一読していただければ幸甚です。

Director 湊 雅博

 

5月24日に行なわれたDIVISION-1のギャラリートークレポート

[ 2014年5月29日 ]

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5月24日に行なわれた深川雅文(キュレーター)×金子泰久、森下大輔、横澤進一によるギャラリートークを私見も含めてまとめます。

序盤は深川さんの個人質問と紹介で始まる。

金子さんから始まり、アッジェの写真が好きだという事から始まり、ベンヤミンがアッジェの写真を見てある種の普遍的な殺人現場という話に繋がり、展示会場におかれている(普段はテキストだがグループ展を考慮し)CDプレイヤー内の「豊田商事の事を国会で扱っている際の議事録」が役職と名前から連想する事と、写真見る事から連想する事が似ているのではないのかという話になった。

続いて、森下さんは写真学生時代に叩き込まれた写真至上主義(自身がカメラになる。あるいは写真と一体化する的な意味)を「風通しが悪かった」と語り、4、5年後に世界の確かさの証明に飽き、そこに自己を投影しても良いのではないのかと思い始めたと続けた。見えないものを見える様にしたい、まっすぐ行って突き抜ける。理論を見せたくない。一枚で成立させたい。などの森下さん節が炸裂した。
それらを受けて深川さんが」写真を見ていて引っかかる部分が、新たに想像するようなところが色々ある。写真が名前として指し示す事。このアプローチは面白い。」と答えた。

最後に、横澤さんは写真を撮る理由を語った。以前は自身のゆかりのある場所を撮っていた。しかし、一昨年体調を壊し、2013年再び回復してから体を自然にならす様に、撮りにくい立ち入り禁止の場所で撮影を開始した。場所は荒川中流を撮り始めた。以前は広く浅く撮っていたが、次第に場所を狭めていったという。荒川を撮り始めた理由としては、震災や父の入院(水が溜まる病。しかし、その水を抜くため、水を飲まなくてはいけないという状況)などがあると語る。選んだ写真はごちゃごちゃしたものを選び、左上と右下を決めて、それ以外はバランスを考えて並べたと語る。
それらを受けて深川さんは「ルイスボルツが殺伐とした風景を撮りながら、人間の置かれている状況を想像するが、それはあるのか?」「これまでは風景に歴史的な意味を付ける様に成り立ってきたが、それらとは関係なく体で撮って成り立ったという風景の生まれ方が新鮮だった。」と語った。

紹介が終わり深川さんから質問。アルベルト・レンガー=パッチェ写真集「世界は美しい」から、出展作家へ向けて「世界とは何か?」と言う質問が投げられた。

森下さんは「世界は一緒に歌う相手」と答え、存在と自分が溶合い歌になりたい。うまくいくと世界と自分が消えるのではないのか。そうすれば美しくなると続けた。
続けて深川さんから「物語とは?」という質問がされ、「意味が分からない。全く考えた事がない。」と答え、ルイス・ボルツの写真でGOサインが出たと言う。

横澤さんは「世界は素朴なもの」と答えた。関係ないもの程面白く、見るつもりの無いものを見てしまったりする為に写真を撮っている。センセーショナルな物事よりも普通なものに目が向く。そして、何度も同じものを撮ってしまう。それは杭を打つ場所がないにも関わらず、なんとか隙間を見つけて打つ事に似ていると語る。
同じく「物語とは?」という質問に対して「あった方が良い。自分と関係のない話しでは無く、それは撮るきっかけとなった話をつけた方が良いと思う。」と語り、今回の作品に仮にタイトルをつけるのであれば[カウントレス パイル]と付けると語った。

金子さんは「世界はオドロしい、あるいは、世界は暗い」と答え、呪術に興味があり、そういった情念の様な願いを叶えたいという欲望があるのではないのかと語り、それが写るのではないのかと続けた。
同じく「物語とは?」という質問を受けて、「排除したい。しかし、見る時に物語が生まれるのではないのか?それは見る人に委ねたい。似られる時に物語が生まれる事は否定しないが、写真だけで勝負したい。」と語った。

後、休憩をはさみ会場とのやり取りも行なわれたが、いまいちメモを取りきれず混線したので来場者のみの特権として割愛させていただきます。申し訳ない。

 

各作家に対しての私見をいくつか書いてみようと思います。

森下さんはやはり私にとっての写真という枠の外にいる様な不思議な存在でした。「鍵盤をただひたすら叩き続ける。」「世界とは一緒に歌う相手」「物語は必要なの?」といった、私にとっては迷言(名言)の様な事を本気で言ってくるので「この人はやっぱりパネー」という印象を受けました。しかしながら、「ルイス・ボルツの写真でGOサインが出た。」という言葉には何故だか親近感が湧いてしまって、「ああ、やはり写真家である」という何だか解らない感慨深さがありました。
以前から写真は見て知っていたのですが、こうやって作者を前に会話を続ける事で作品への理解が深まるのだと思いました。が、未だに理解には至っていないのでしょうね。結局私の中では謎の人物でした。

金子さんは、まさかの呪術萌え発言に驚かされました。この人こそ即物主義的な人だろうなと思っていたのですが、そこにはある種の地場的なものがあってなんて、電波な感じな事を言うので何だか親近感が生まれてしまいましたし、その場所で太古の昔も同じ事が行なわれていたのかもしれないという発言には納得しました。けれど、まあ、それは普段言わない部分にせよ提示しないにせよ、あまり言うべき事ではなかったのかとも思えました。
今回の展示で初対面という事も含め、写真と文章の関係に関しては私も悩んでいるので、今後どのような展示をしていくのか気になる存在になりました。

横澤さんは、本当は私達(DIVISION-1)と同じフロアでやるべきだったのではないのか?という思いすら抱かせる内容でした。自分と関わりのない事にどうして興味がわくのだ?といったまっすぐな言葉が私の中には強く残っています。
父の病や震災が影響しない訳がないだろうということ、ひたすら同じ場所を歩いてしまう事、それらは日本の写真史を無意識になぞっている様な感覚すら覚えるものでした。
以前から知っていながらも、そういった思いから起こる撮影だという事を知れた事が新鮮でした。

そして、この水掛け論になりがちなギャラリートークを正に水際でうまく運んでいたのはさすがなと、若輩者ながら感心してしまいました。深川さんありがとう御座いました。

 

山下隆博

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