リフレクション 写真展 / director 湊雅博

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5月17日に行われた山下、村越、藤村のトーク。藤村氏の的確な進行で、全般として和やか、スムーズ。おおよその雰囲気はメモと写真で。以下乱暴な感想。

村越は、制作の主体としての自己を構築してきた。だがその中心に据えられるべき哲学が疎らだと感じた。その空洞をきちんと埋めてゆかないと、これからキツくなるだろう。

山下はそもそも写真を道具だと割り切っているところがあるので、自己愛が抜ける年頃になると、いい仕事をするような気がする。それまでに、感傷的なタッチを全部出し切って、それに飽きてほしい。

今回の展示で問われるべきは、個々の水準や指向性の違いこそあれ「知っているものを撮ろうとしている」写真家と「知らないものを撮ろうとしている」写真家の意識の差異を浮き彫りにすることだと思っているが、道半ばに終わった。なにかしらの価値や倫理を明確に提示するなんて、個展ですらできないのがほとんどであるから、ましてグループ展、過程が重要だとの湊の意向を信じるしかない。ほかにこんなグループ展ないからね。

スタートとゴールがきちんと設定されている作家と、曖昧な、見切り発車に意義を感じる作家、横澤さんはわりとそのあいだにいるような気がしている。

 

メモを引用。括弧は森下。

村越/震災以降空き地が増えた。使われていない建物、場所が増える。人気がない。撮り方は変わっていない。以前より人工物が増えたので、線がよく見える。

山下/地元を撮影したシリーズ。原発のまわりの生活。ドキュメント的な要素は排除。今回は地元紹介的なまとめかた。離婚した両親の写真をメインに家の中外5枚ずつ。村越が建物中心なので、そういった作品は省いた。

藤村/聞いてたのと実際の展示が全然違う。村越は遠景から2011年の震災あたりから変化してきた。距離感の違い。一点一点から塊で。山下は内面性、パーソナルな作品かと思ったらもうすこし客観的な視線の質。二人の相乗効果がうまく行っている。

山下/白が多いとおしゃれになりがち。気をつけた。お互いの作品に関して知ってたので、それほど問題はなかった。

藤村/風景写真とは?
村越/最初からずっと風景を撮っている。今回はドキュメンタリー的要素が浮き彫りに。
山下/ポートレイト以外はだいたい風景。いくつかの種類に自分の作品を分類する。

藤村/風景をおおきく二つの分けられる。ドキュメンタリー/自己の内面
ドキュメンタリー/山下が「取材にいく」と言ったのが新鮮で、「撮影にいく」ではないのだった。 山下村越/同じ先生に教わった。
山下/最初からドキュメンタリー指向。人間の行いについて興味がある。結局、あまりに要素が多すぎて、一概にどこに責任があるというのは難しい。今後は北海道全部を撮りたい。
藤村/答えは見えたのか。
山下/内と外、両方の視点が必要なのでは。個々で考えて下さい。考える素材を提供する。原発があるのが当たり前だった。
村越/60キロ離れ、安全神話だったので気にしてなかった。生まれ育ったから撮りはじめた。自分のことから撮影をはじめた。311以降、地元を撮らなければ、という気持ちが強まった。
山下/当初は気にしてなかったが、2、3年後から原発の存在に違和感を。
村越/撮るという行為には飽きないが、画角には飽きる。飽きる前にカメラを変えたりして、変化させてゆく。写真に対する考えを放棄している。ずっと同じ風景を同じカメラで撮ってゆく作業には向いていない。震災とは関係ない。震災以降モノに向かって行った。
藤村/ドキュメンタリーなのか?
村越/ドキュメンタリーではない。しばらく時間が経ってから、ひとつの視点として見てもらえればいい。(自分のための、個人的なドキュメンタリー?)

山下/ドキュメンタリーは3Kだ。やってるとだんだん辛くなる。みんな最終的には笑顔に行ってしまう。美術の文脈でドキュメンタリーを使う作家も増えている。
藤村/個人的な事情を隠さないのか
山下/美しさで人をひきつけて、実際との落差を考えさせる。サルガド、マグナム的手法もあり。
藤村/マグナム
山下/アレック・ソスが好き。社会にかかわってゆく。(自分を表現したいという気持ちは?)
村越/自分を少しずつ外に拡げてくれるのが写真。どうなるのかわからない。写真を撮るという行為のほうへ。(主張でもなければ説得でもない、知性が自分のいる空間を次第に発見していく思考の実験、という意味なら共感できる)

休憩/後半

藤村/北海道開拓写真は一枚の写真に対する重みが違う?いまでいうフィルム、デジタルか。二人ともフィルム最終世代。
山下/北海道の話。地元、かつて遊郭があった。飲み屋。ニシン漁。
家族写真の扱い。普段家族の写真は入れないが、今回はポートレート。

藤村から湊へ質問/どうして山下の作品をみて風景だと?
湊/外界に対する態度の表明、外界からの作用の個人的な具象方法として風景がある。山下の写真に対する取り組みかた全体が風景写真だと。

山下/10年多摩川を撮っている。自然と人間が拮抗している場所。人工物すら自然の一部ではないのか?自然ってなんだ。(現実のすべて。すべてを繰り込みつつ進行するもの。)
藤村/人間も風景の一部ということ?

森下質問/村越へ 「写真に対する考えを放棄している」というのはどういうことなのか? 作品に対する作者自身による性格づけを避けるため、放棄するという意味。ただ、なにもないというわけではない。きっかけとしてのかけらがあればいい。

小平/「なにもない」と思われるのが怖いのか?

湊/ 作家としての成長というものをどう考えているのか?完成度を高めるというのはわかるが、これまでのスタイルを踏襲して、ずっとやっていくのか?

村越/これまでと違った性質の展示だが成立しているという意味で、成長のきっかけにはなるのでは。自分の写真も信じているし、見てくれる人のことも信じている。

(森下、湊、小平ともに同じ疑義を村越の作品に関して感じているようだ。村越本人は自分にも言いたいことはあるというが、答えを慎重に避けている。)

森下質問/山下へ 写真の表面的な美しさをきっかけに、現実社会の問題に引き込みたい。とのことだが、自己表現したいという気持ちはないのか?(仕組みとしての美しさ、というのには社会的な言説を負うのでなく、あまりに個人的な事情を美しく記述しようとするので、それをどのように自分自身が意識しているのか知りたかった)山下/センチメンタルさは、それほど気にしていない。(納得できなかった。もう少し突っ込んでもよかったか。また、手段として写真を用いるということに関して、二人の意識にどれほど違いがあるのか、尋ねるべきだった)

自分がずっと感じている、写真に対する違和感が少しずつ炙り出されてゆくようで、興味深い時間だった。言葉が隔てる距離を祝福したい。会期中に参加者と調文明による座談会も予定されているので、もうちょっとざっくばらんに話したいものだ。

森下大輔

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