森下さんに習って私も同展示作家についての私的感想を書いてみようと思います。
金子泰久さん
細部に注目し過ぎてよく解らない。それがどこであるかという事に作者が頓着していないにも関わらず、そこがどこなのかという事を見ている方は何故だか興味が湧いてしまう。それは多分、個展で行われている展示方法(何だかいまいち掴み所のない小説めいた文章がドカンとある)に起因するのかもしれないけれど、私なんかは特にそういった仕様に翻弄されてしまう。
撮影した時期で色の傾向が違っているのも面白い。大体が沈んだ暗めのトーンなのだけれど、逆に実際の見た目より少しだけ明るくしたらどうなるのかな?とか考えてしまう。ある意味見えにくさの様なものによって人の視線を泳がせる作戦としてはどちらでも良いのかなとか勝手に思えてしまっている自分は安易なのかもしれない。
森下大輔
何故だかもの凄く写真らしい気がする。なんて事を書いてしまうと「写真らしさとは?」なんて質問をされかねないのでこの段階でお断りをさせてもらえるとありがたい。その、写真らしさというのは結局物質性(これもまた本人に突っ込まれかねないので勘弁)なのかなと思えてしまう。制作過程を聞いて、なおさらその思いが強くなってしまった。
いわゆるファインプリントを嫌う?という事はそこにケミカルであるからこそ自身の身体によって、或は化学現象を用いて画像をアンコントロールする事の偶然性の様なものを好んでいるという事で、それは撮影の場合でもあるのだろうけれど、もの凄く日本写真的写真活動なのではないのかと思えてしまう。コントロールをしないというコントロールという印象を覚える。トラディショナルな気がしてならない。そして、私は意外と手が写ってるシリーズが好きだった。
横沢進一
川だから好き。今回は全て荒川という事でどう見ても私には「川の写真」でしかなくて、とても好きだという私情は別にして、一番普通?に撮っているにも関わらずよく解らない写真だなと思えてくる。目が疲れてくるから見る事を諦めそうになってしまう。それは多分しっかり写っているからなのかもしれない。草木の一つ一つがしっかりくっきり輪郭をもって「もういやだ」と思う程にあるからかもしれない。(これはシャフトというアニメ制作会社のやり口と似ているのではないのかと不意に思ってしまった。)
とにかく見ていて疲れるという事だ。それは多分私達がいかに見ていなかったかという事の裏返しで、見る事を強制された時に気付く外界の煩わしい程の情報量の確認なのではないだろうか。
DEVISION-1の出展作家はこれを書いて思ったけれど、意外とまとまっていない。
金子さんは世界をもっと見るべきだと言って細部を適度のに強調しながらその複雑さを問いている様に思う。
森下さんは現実を写したはずの写真に悪戯をする。その作業は見ている私達に対して行なわれた事だと考えると「俺の世界を見ろっ!」と世界を改変する強者にも思える。
横澤さんはただ撮っているだけの様に思えるけど、その取り口がもの凄く整理されていて意外とデザイナー感が出ていてちょっと嫉妬する。
こうやって書いてみると色々思う所があったなと思えてしまう。どこかで一度作家全員で公開討論会っていうのもアリなのかなとかなんて思えてしまう。