リフレクション 写真展 / director 湊雅博

2016年10月


言葉との出会い

[ 2014年12月30日 ]

川で撮った写真を見返し、プリントする。手元にある塊が現われる。これらを前に息を吐き、自分のこと、自分の場所のこと、写したつもりになっていた風景のことなど思いかえす。

『….人の死を想う時、風景はとてつもなく鮮やかに見える。葉を落とした樹の枝が、なんと鋭く空を切ることか。逆光の新緑が、なんと目映いことか。なぜか無性に絵が描きたくなる。絵を描く訳が、ここにはある。それは、覚えておくべきことなのだ。』

きのう、画家の向井三郎さんという方のこの文と出会った。そろそろ展示する日がちかいので一旦おわりにしよう。いつもスクロールして見ている画像を、わざわざ紙に出し直し、壁に貼り、体を前後左右に動かして見るとは何ぞや。横澤

詩の波 詩の岸辺/松浦 寿輝

[ 2014年12月22日 ]

松浦 寿輝 「詩の波 詩の岸辺」p174より引用

観念的な詩語の息苦しい持続の中に、様々な他者のテクストが呼び入れられ、種々多様な「裂開」が作り出される。だがそうやってページの上に空白が開かれるや、それはまた言葉それ自体によってただちに閉鎖されてゆく。

今月は、観念的ないし抽象的な作風の詩人の仕事がたまたま三冊並んだ。素朴な抒情や感傷は単なる自己満足に堕しやすいが、他方、硬質な観念の遊戯もまた、ややもすれば空転し、ナルシシズムの閉域に案外と自足しがちなものである。現実や他者の突きつけてくる抵抗感が表層言語の自動運動に歯止めをかけるということが、なくなってしまうからだろう。これら三冊は、どれもそうしたナルシシズムの罠の所在に十分に自覚的な作者によって書かれていると感じた。

森下

[ 2014年12月8日 ]

「ヴァナキュラー(土地特有の)」という言葉の面白さは、それがもともと言語学の用語に由来する所にあります。現地の人々が話す言葉や共通語のバリエーションを意味します。ロサンジャルスを車で走っていると、建物が自分に語りかけてくるような気がします。人が施した窓辺の飾り付けから、建物の外観(もちろん、人々は貸アパートに住んでいるので建物や外観を変えることはできませんが)など、特定の場所に独特な「ヴァナキュラー」な雰囲気があるのです。新しい都市を訪れると、建物の形状から語りかけられる言語が、不協和音のように押し寄せてきます。建築物を観る時やその写真を撮る時に、それは常に興味を刺激することのひとつでした。なぜならそれは言語学と関連しているし、人々が抱く願望や文化が無意識的に自身についてどのように考えているかとも関連しているからです。広い意味でこれは風景の中に見られるとても素晴らしいボキャブラリーなのです。ですが建築とは(所謂、造られた環境とは)、風景にも声を与えるという意味でとても重要です。よっぽどの荒野にでも行かない限り(私はほとんど行きませんが)、風景とは常に人によって造られています。その風景には音質や音調が現れるのです。これはある有名な逸話で、とある音楽家がエンパイアステートビルディングの展望台からニューヨークの音を聴いて、「Eシャープ(E#)だ」と言ったという話があります。どんな風景にも、そこに特別な音があるのです。

私たちの風景からはどんな音が聞こえるのか. 不協和音かも知れん..  横澤

DEVISION-1の作家について思った事

[ 2014年12月7日 ]

森下さんに習って私も同展示作家についての私的感想を書いてみようと思います。

 

金子泰久さん

細部に注目し過ぎてよく解らない。それがどこであるかという事に作者が頓着していないにも関わらず、そこがどこなのかという事を見ている方は何故だか興味が湧いてしまう。それは多分、個展で行われている展示方法(何だかいまいち掴み所のない小説めいた文章がドカンとある)に起因するのかもしれないけれど、私なんかは特にそういった仕様に翻弄されてしまう。
撮影した時期で色の傾向が違っているのも面白い。大体が沈んだ暗めのトーンなのだけれど、逆に実際の見た目より少しだけ明るくしたらどうなるのかな?とか考えてしまう。ある意味見えにくさの様なものによって人の視線を泳がせる作戦としてはどちらでも良いのかなとか勝手に思えてしまっている自分は安易なのかもしれない。

 

森下大輔

何故だかもの凄く写真らしい気がする。なんて事を書いてしまうと「写真らしさとは?」なんて質問をされかねないのでこの段階でお断りをさせてもらえるとありがたい。その、写真らしさというのは結局物質性(これもまた本人に突っ込まれかねないので勘弁)なのかなと思えてしまう。制作過程を聞いて、なおさらその思いが強くなってしまった。
いわゆるファインプリントを嫌う?という事はそこにケミカルであるからこそ自身の身体によって、或は化学現象を用いて画像をアンコントロールする事の偶然性の様なものを好んでいるという事で、それは撮影の場合でもあるのだろうけれど、もの凄く日本写真的写真活動なのではないのかと思えてしまう。コントロールをしないというコントロールという印象を覚える。トラディショナルな気がしてならない。そして、私は意外と手が写ってるシリーズが好きだった。

 

横沢進一

川だから好き。今回は全て荒川という事でどう見ても私には「川の写真」でしかなくて、とても好きだという私情は別にして、一番普通?に撮っているにも関わらずよく解らない写真だなと思えてくる。目が疲れてくるから見る事を諦めそうになってしまう。それは多分しっかり写っているからなのかもしれない。草木の一つ一つがしっかりくっきり輪郭をもって「もういやだ」と思う程にあるからかもしれない。(これはシャフトというアニメ制作会社のやり口と似ているのではないのかと不意に思ってしまった。)
とにかく見ていて疲れるという事だ。それは多分私達がいかに見ていなかったかという事の裏返しで、見る事を強制された時に気付く外界の煩わしい程の情報量の確認なのではないだろうか。

 

DEVISION-1の出展作家はこれを書いて思ったけれど、意外とまとまっていない。

金子さんは世界をもっと見るべきだと言って細部を適度のに強調しながらその複雑さを問いている様に思う。

森下さんは現実を写したはずの写真に悪戯をする。その作業は見ている私達に対して行なわれた事だと考えると「俺の世界を見ろっ!」と世界を改変する強者にも思える。

横澤さんはただ撮っているだけの様に思えるけど、その取り口がもの凄く整理されていて意外とデザイナー感が出ていてちょっと嫉妬する。

こうやって書いてみると色々思う所があったなと思えてしまう。どこかで一度作家全員で公開討論会っていうのもアリなのかなとかなんて思えてしまう。

山下隆博

村越氏と山下氏の作品について

[ 2014年12月7日 ]

村越としや、山下隆博。普段あまり他の写真家の作品を見ないので、今展の打ち合わせにおいて両氏の作風にはじめて触れた。展示前のミーティングの感想をおおざっぱに。

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村越氏 渡辺兼人を彷彿とさせる、スタンダードな自己愛を基調とした、落ち着いた視線。だが渡辺ほどの身震いはない。でもこれはこれで静か。悪くない。しかし福島という物語がなかったらどうなのか、という疑問は残る。ほんの兆しでいい、作品を成立させる一歩手前、一歩先に破調があればと思う。それは当人ももちろん感じている点だろう。自分の身体性にうっすら飽きつつ、視線を飛ばしてほしい。

それでも彼が一貫して発表し、本を作り、自分のスタイルを確立せんとする姿勢には打たれるものがあった。私はそういった実際的な動きをどこか軽んじ、疎んじ、良きにつけ悪しきにつけ自分の求める質を追ってきた。でも、そればかりじゃ成り立っていかないな、と気づかせてくれたのが、とてもありがたかった。

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山下氏 軽妙な人柄とは裏腹に、至ってまじめな作品群。みんな好きになるんじゃないかな。泣きの塩梅が少々気になるが、彼の写真にはいい性質の軽みがある。それは村越氏の、現実的な下へ向かう重力、もしくは写真の表面へ向かう重力とはまた異質の、やさしい重力とでも言おうか。ハートは熱く、でも頭は冷静に、酒で少々煮えているけど。

自分が今いる場所がぜんぶドキュメンタリーなんだ、という開き直りをもっと受け入れたら、もっとずっと面白い作家になる気がする。社会的な言説も、個人の感情も全部俺の写真で翻訳してみせる、くらいの。それくらい思わないと釣り合わないほど優しい。その優しさを武器にしてほしい。

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またなにか思ったら書きます。 森下

[ 2014年12月5日 ]

このあいだ横澤さんと飲んでいて、なんで川辺の写真を撮るようになったのか尋ねたところ、意外な答えが返ってきた。お話っぽく書くのも違う気がするので、断片的に記す。

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病の父、その腹に溜まる水。だが腹に水が溜まっているにもかかわらず、「もっと水をくれ」と繰り返す父。

父の死。鬱っぽくなる。

そして津波。また水だ。水ってなんなんだ。このからだもほとんど水だっていうし。

 

そろそろ外に、写真撮りに行くか、じゃあ川だ。水があるし。

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森下

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