リフレクション 写真展 / director 湊雅博

2016年10月


5月24日に行なわれたDIVISION-1のギャラリートークレポート

[ 2014年5月29日 ]

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5月24日に行なわれた深川雅文(キュレーター)×金子泰久、森下大輔、横澤進一によるギャラリートークを私見も含めてまとめます。

序盤は深川さんの個人質問と紹介で始まる。

金子さんから始まり、アッジェの写真が好きだという事から始まり、ベンヤミンがアッジェの写真を見てある種の普遍的な殺人現場という話に繋がり、展示会場におかれている(普段はテキストだがグループ展を考慮し)CDプレイヤー内の「豊田商事の事を国会で扱っている際の議事録」が役職と名前から連想する事と、写真見る事から連想する事が似ているのではないのかという話になった。

続いて、森下さんは写真学生時代に叩き込まれた写真至上主義(自身がカメラになる。あるいは写真と一体化する的な意味)を「風通しが悪かった」と語り、4、5年後に世界の確かさの証明に飽き、そこに自己を投影しても良いのではないのかと思い始めたと続けた。見えないものを見える様にしたい、まっすぐ行って突き抜ける。理論を見せたくない。一枚で成立させたい。などの森下さん節が炸裂した。
それらを受けて深川さんが」写真を見ていて引っかかる部分が、新たに想像するようなところが色々ある。写真が名前として指し示す事。このアプローチは面白い。」と答えた。

最後に、横澤さんは写真を撮る理由を語った。以前は自身のゆかりのある場所を撮っていた。しかし、一昨年体調を壊し、2013年再び回復してから体を自然にならす様に、撮りにくい立ち入り禁止の場所で撮影を開始した。場所は荒川中流を撮り始めた。以前は広く浅く撮っていたが、次第に場所を狭めていったという。荒川を撮り始めた理由としては、震災や父の入院(水が溜まる病。しかし、その水を抜くため、水を飲まなくてはいけないという状況)などがあると語る。選んだ写真はごちゃごちゃしたものを選び、左上と右下を決めて、それ以外はバランスを考えて並べたと語る。
それらを受けて深川さんは「ルイスボルツが殺伐とした風景を撮りながら、人間の置かれている状況を想像するが、それはあるのか?」「これまでは風景に歴史的な意味を付ける様に成り立ってきたが、それらとは関係なく体で撮って成り立ったという風景の生まれ方が新鮮だった。」と語った。

紹介が終わり深川さんから質問。アルベルト・レンガー=パッチェ写真集「世界は美しい」から、出展作家へ向けて「世界とは何か?」と言う質問が投げられた。

森下さんは「世界は一緒に歌う相手」と答え、存在と自分が溶合い歌になりたい。うまくいくと世界と自分が消えるのではないのか。そうすれば美しくなると続けた。
続けて深川さんから「物語とは?」という質問がされ、「意味が分からない。全く考えた事がない。」と答え、ルイス・ボルツの写真でGOサインが出たと言う。

横澤さんは「世界は素朴なもの」と答えた。関係ないもの程面白く、見るつもりの無いものを見てしまったりする為に写真を撮っている。センセーショナルな物事よりも普通なものに目が向く。そして、何度も同じものを撮ってしまう。それは杭を打つ場所がないにも関わらず、なんとか隙間を見つけて打つ事に似ていると語る。
同じく「物語とは?」という質問に対して「あった方が良い。自分と関係のない話しでは無く、それは撮るきっかけとなった話をつけた方が良いと思う。」と語り、今回の作品に仮にタイトルをつけるのであれば[カウントレス パイル]と付けると語った。

金子さんは「世界はオドロしい、あるいは、世界は暗い」と答え、呪術に興味があり、そういった情念の様な願いを叶えたいという欲望があるのではないのかと語り、それが写るのではないのかと続けた。
同じく「物語とは?」という質問を受けて、「排除したい。しかし、見る時に物語が生まれるのではないのか?それは見る人に委ねたい。似られる時に物語が生まれる事は否定しないが、写真だけで勝負したい。」と語った。

後、休憩をはさみ会場とのやり取りも行なわれたが、いまいちメモを取りきれず混線したので来場者のみの特権として割愛させていただきます。申し訳ない。

 

各作家に対しての私見をいくつか書いてみようと思います。

森下さんはやはり私にとっての写真という枠の外にいる様な不思議な存在でした。「鍵盤をただひたすら叩き続ける。」「世界とは一緒に歌う相手」「物語は必要なの?」といった、私にとっては迷言(名言)の様な事を本気で言ってくるので「この人はやっぱりパネー」という印象を受けました。しかしながら、「ルイス・ボルツの写真でGOサインが出た。」という言葉には何故だか親近感が湧いてしまって、「ああ、やはり写真家である」という何だか解らない感慨深さがありました。
以前から写真は見て知っていたのですが、こうやって作者を前に会話を続ける事で作品への理解が深まるのだと思いました。が、未だに理解には至っていないのでしょうね。結局私の中では謎の人物でした。

金子さんは、まさかの呪術萌え発言に驚かされました。この人こそ即物主義的な人だろうなと思っていたのですが、そこにはある種の地場的なものがあってなんて、電波な感じな事を言うので何だか親近感が生まれてしまいましたし、その場所で太古の昔も同じ事が行なわれていたのかもしれないという発言には納得しました。けれど、まあ、それは普段言わない部分にせよ提示しないにせよ、あまり言うべき事ではなかったのかとも思えました。
今回の展示で初対面という事も含め、写真と文章の関係に関しては私も悩んでいるので、今後どのような展示をしていくのか気になる存在になりました。

横澤さんは、本当は私達(DIVISION-1)と同じフロアでやるべきだったのではないのか?という思いすら抱かせる内容でした。自分と関わりのない事にどうして興味がわくのだ?といったまっすぐな言葉が私の中には強く残っています。
父の病や震災が影響しない訳がないだろうということ、ひたすら同じ場所を歩いてしまう事、それらは日本の写真史を無意識になぞっている様な感覚すら覚えるものでした。
以前から知っていながらも、そういった思いから起こる撮影だという事を知れた事が新鮮でした。

そして、この水掛け論になりがちなギャラリートークを正に水際でうまく運んでいたのはさすがなと、若輩者ながら感心してしまいました。深川さんありがとう御座いました。

 

山下隆博

M2トークレポ

[ 2014年5月19日 ]

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5月17日に行われた山下、村越、藤村のトーク。藤村氏の的確な進行で、全般として和やか、スムーズ。おおよその雰囲気はメモと写真で。以下乱暴な感想。

村越は、制作の主体としての自己を構築してきた。だがその中心に据えられるべき哲学が疎らだと感じた。その空洞をきちんと埋めてゆかないと、これからキツくなるだろう。

山下はそもそも写真を道具だと割り切っているところがあるので、自己愛が抜ける年頃になると、いい仕事をするような気がする。それまでに、感傷的なタッチを全部出し切って、それに飽きてほしい。

今回の展示で問われるべきは、個々の水準や指向性の違いこそあれ「知っているものを撮ろうとしている」写真家と「知らないものを撮ろうとしている」写真家の意識の差異を浮き彫りにすることだと思っているが、道半ばに終わった。なにかしらの価値や倫理を明確に提示するなんて、個展ですらできないのがほとんどであるから、ましてグループ展、過程が重要だとの湊の意向を信じるしかない。ほかにこんなグループ展ないからね。

スタートとゴールがきちんと設定されている作家と、曖昧な、見切り発車に意義を感じる作家、横澤さんはわりとそのあいだにいるような気がしている。

 

メモを引用。括弧は森下。

村越/震災以降空き地が増えた。使われていない建物、場所が増える。人気がない。撮り方は変わっていない。以前より人工物が増えたので、線がよく見える。

山下/地元を撮影したシリーズ。原発のまわりの生活。ドキュメント的な要素は排除。今回は地元紹介的なまとめかた。離婚した両親の写真をメインに家の中外5枚ずつ。村越が建物中心なので、そういった作品は省いた。

藤村/聞いてたのと実際の展示が全然違う。村越は遠景から2011年の震災あたりから変化してきた。距離感の違い。一点一点から塊で。山下は内面性、パーソナルな作品かと思ったらもうすこし客観的な視線の質。二人の相乗効果がうまく行っている。

山下/白が多いとおしゃれになりがち。気をつけた。お互いの作品に関して知ってたので、それほど問題はなかった。

藤村/風景写真とは?
村越/最初からずっと風景を撮っている。今回はドキュメンタリー的要素が浮き彫りに。
山下/ポートレイト以外はだいたい風景。いくつかの種類に自分の作品を分類する。

藤村/風景をおおきく二つの分けられる。ドキュメンタリー/自己の内面
ドキュメンタリー/山下が「取材にいく」と言ったのが新鮮で、「撮影にいく」ではないのだった。 山下村越/同じ先生に教わった。
山下/最初からドキュメンタリー指向。人間の行いについて興味がある。結局、あまりに要素が多すぎて、一概にどこに責任があるというのは難しい。今後は北海道全部を撮りたい。
藤村/答えは見えたのか。
山下/内と外、両方の視点が必要なのでは。個々で考えて下さい。考える素材を提供する。原発があるのが当たり前だった。
村越/60キロ離れ、安全神話だったので気にしてなかった。生まれ育ったから撮りはじめた。自分のことから撮影をはじめた。311以降、地元を撮らなければ、という気持ちが強まった。
山下/当初は気にしてなかったが、2、3年後から原発の存在に違和感を。
村越/撮るという行為には飽きないが、画角には飽きる。飽きる前にカメラを変えたりして、変化させてゆく。写真に対する考えを放棄している。ずっと同じ風景を同じカメラで撮ってゆく作業には向いていない。震災とは関係ない。震災以降モノに向かって行った。
藤村/ドキュメンタリーなのか?
村越/ドキュメンタリーではない。しばらく時間が経ってから、ひとつの視点として見てもらえればいい。(自分のための、個人的なドキュメンタリー?)

山下/ドキュメンタリーは3Kだ。やってるとだんだん辛くなる。みんな最終的には笑顔に行ってしまう。美術の文脈でドキュメンタリーを使う作家も増えている。
藤村/個人的な事情を隠さないのか
山下/美しさで人をひきつけて、実際との落差を考えさせる。サルガド、マグナム的手法もあり。
藤村/マグナム
山下/アレック・ソスが好き。社会にかかわってゆく。(自分を表現したいという気持ちは?)
村越/自分を少しずつ外に拡げてくれるのが写真。どうなるのかわからない。写真を撮るという行為のほうへ。(主張でもなければ説得でもない、知性が自分のいる空間を次第に発見していく思考の実験、という意味なら共感できる)

休憩/後半

藤村/北海道開拓写真は一枚の写真に対する重みが違う?いまでいうフィルム、デジタルか。二人ともフィルム最終世代。
山下/北海道の話。地元、かつて遊郭があった。飲み屋。ニシン漁。
家族写真の扱い。普段家族の写真は入れないが、今回はポートレート。

藤村から湊へ質問/どうして山下の作品をみて風景だと?
湊/外界に対する態度の表明、外界からの作用の個人的な具象方法として風景がある。山下の写真に対する取り組みかた全体が風景写真だと。

山下/10年多摩川を撮っている。自然と人間が拮抗している場所。人工物すら自然の一部ではないのか?自然ってなんだ。(現実のすべて。すべてを繰り込みつつ進行するもの。)
藤村/人間も風景の一部ということ?

森下質問/村越へ 「写真に対する考えを放棄している」というのはどういうことなのか? 作品に対する作者自身による性格づけを避けるため、放棄するという意味。ただ、なにもないというわけではない。きっかけとしてのかけらがあればいい。

小平/「なにもない」と思われるのが怖いのか?

湊/ 作家としての成長というものをどう考えているのか?完成度を高めるというのはわかるが、これまでのスタイルを踏襲して、ずっとやっていくのか?

村越/これまでと違った性質の展示だが成立しているという意味で、成長のきっかけにはなるのでは。自分の写真も信じているし、見てくれる人のことも信じている。

(森下、湊、小平ともに同じ疑義を村越の作品に関して感じているようだ。村越本人は自分にも言いたいことはあるというが、答えを慎重に避けている。)

森下質問/山下へ 写真の表面的な美しさをきっかけに、現実社会の問題に引き込みたい。とのことだが、自己表現したいという気持ちはないのか?(仕組みとしての美しさ、というのには社会的な言説を負うのでなく、あまりに個人的な事情を美しく記述しようとするので、それをどのように自分自身が意識しているのか知りたかった)山下/センチメンタルさは、それほど気にしていない。(納得できなかった。もう少し突っ込んでもよかったか。また、手段として写真を用いるということに関して、二人の意識にどれほど違いがあるのか、尋ねるべきだった)

自分がずっと感じている、写真に対する違和感が少しずつ炙り出されてゆくようで、興味深い時間だった。言葉が隔てる距離を祝福したい。会期中に参加者と調文明による座談会も予定されているので、もうちょっとざっくばらんに話したいものだ。

森下大輔

DEVISION-2の作家について思った事

[ 2014年5月16日 ]

明日はいよいよDEVISION-2のトークイベントです。よろしくお願いします。ということで、一緒に展示している村越としやさんについて書いてみようと思います。

村越としやさん

いつまでこれを続けるのかと思う位執拗に同じ様なスタイルでの作品制作を続けている。同じ様なと書いたのは、その中に些細な変化を続けているからで、実際初期の写真からは明らかに変化をしている。けれど一見するとその変化には気付き難いし、昔から見ている様な人にとってはそれはなおさらかもしれない。
しかし一貫しているのは冷めた様な冷静な視線なのかもしれない。そして、それを裏切る様なヌメヌメとした、それでいてどこか少しだけ温度を保った様なプリントなのかもしれない。そして、その写真の質感を育んだのは福島の原風景なのではないかと思う。
私も難度か福島を音連れタがそこで体験した山や海での起きる濃霧は正しく村越写真なのではないのかと思えてしまった。

山下隆博さん
頑張って下さい。はい、解りました。

2014年5月17日(土)16:00〜18:00位
DIVISION-2 / Interference[M2gallery(2F)
ギャラリートーク(参加費¥500、ワンドリンク付き)
村越としや、山下隆博 × 藤村里見(東京都写真美術館学芸員)

山下隆博

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